文久三年に伊藤俊輔(後の公爵伊藤博文)・井上聞多(後の公爵井上馨)・山尾庸三(後の子爵山尾庸三)・野村弥吉(後の子爵井上勝)及遠藤謹介の五人の長州藩士が泰西文化の考察研究の目的を以って横浜のジャーディン・マテソン商会所有の船に乗込み、幕府の禁を犯して英国に渡航せられた事は世間に相当よく知られて居る様に考えますが、さてそれから後のことに就きましては之を知るもの極めて少なく、しかも同五氏の渡英が我国に於ける学術の発達に重大なる関係を有して居ることに就いては全く世間に知られて居ない様に考えますからこの機会に於いて少し詳しくお話して見たいと思うのであります  
 五氏が英国に到着せらるると、直ぐにジャーディン・マテソン商会倫敦<ロンドン>代理店の手を経て一人の中老紳士に紹介せられ而して其の紳士が五氏を一身に引受けて万端の世話を為し、之が為に五氏は勉学上視察上多大の便宜と利益とを得られたのでありますが、其の紳士は倫敦大学の教授で世界に其の名を轟かした化学の大家ウイリアムソン博士であったのであります。
かくして
ウ博士指導の愈々<いよいよ>攘夷論の非なることを痛感して大いに決心する所があったらしく考えられるのでありますが、翌年即ち元治元年に至り所謂馬関事件なるものが突発し而して異郷に於いてこの悲報に接した五氏の驚愕は実は一方ならざるものがありまして伊藤・井上両氏は直ぐに帰朝して長州藩士の鎮撫に当ることとし、又他の三氏は英国に留まってそれぞれ研究を継続することとなったのであります。
 馬関事件が鎮静して間もなく明治維新の偉業が遂行せられたことは人の知る通りで有ります。而して明治政府の一大使命が近世科学とその応用とを我国土に移植しこれに依って新文化を建設するにあったことは前にも申しました通りでありまして、維新後直ぐに幕府時代の開成所を復興して純然たる教育機関となし而して全国より貢進生を募集してこれに入学せしめるなど、時を移さず右使命達成の第一歩を踏み出した訳であったのであります。
 そこで、最初の中は外国語を主とし而して近世科学は単にその初歩に過ぎない程度でありますから、当時の教師は全部在住宣教師などの中から選抜してこれを任用したものでありますが、生徒の学力が進み而していよいよ専門教育を施すべき時期の切迫するに従って適当な専門学者を教師として招聘するの必要を生じましたので、政府当局は英国よりこれを招聘することとしたのでありますが、当時の英国には我公使館も領事館もなっかたのでありますから、横浜のジャーディン・マテソン商会に依頼したのであります。そこで同商会はその倫敦代理店にこれを伝達し、代理店では前の関係を辿ってウイリアムソン博士に適任者の推薦を依頼したのでありまして、同博士が直接間接これら専門教師の推薦に関与せられたことは我国学界の為には非常なる仕合せであったのであります。と申します訳は、かくして我国に渡来された教師は何れも新進有為の学者揃いでありまして、或いは東京開成学校−工部大学校に於いて非常なる熱心を以って近世科学及びその応用の指導に従事し、ことに独創的研究の精神を鼓吹して実際に自ずからその例を示し又学生を研究助手に使って実地の訓練を施す等、我国学術発達の初期、即ち最も大切なる時期に於けるこれら外国教師の功績は真に大なるものがあったのであります。
しかもこれら外国教師の内、エヤトン・ダイヴァース・ユーイング・ミルン・ペリー諸氏の如きは何れも後年に至り倫敦ローヤル・ソサイティの会員に推選せられ世界的知名の学者と成られたことは人の知る通りであります。又ダイヴァス氏が明治十九年工部大学校が東京大学に合併後も尚本郷なる帝国大学に移って新進科学者の研究指導に当られ、前後三十年の長きに渉って我学界に貢献せられたその功績の特に大なるものがあったこともまた人の知る所であります。

Home 年表1
 ウイリアムソン博士と我学界
 枢密顧問官・帝国学士院長 櫻井錠ニ講演
 「日本に於ける学術の発達」より
 財団法人 啓明会 第七十八回講演集         
   (昭和13年5月30日発刊)