櫻井錠二生誕地と先祖の消息
 金沢・馬場一番丁
(現東山3丁目)
生誕地顕彰碑
文政13年(1830)古地図(藤本文庫) 金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵
昭和54年金沢大学名誉教授阪上正信先生・化学史研究会・郷土資料館(現石川県立歴史博物館)などの協力によりこの古地図が明らかになり生誕地が確認できた。浅野川の側に関助馬場が見える。
櫻井錠二はこの地で安政5年(1858)に誕生し、能登七尾の語学所に居た7ヶ月を除き明治4年(1871)母と上京するまで13年間ここで暮らしていた。ではこの地に櫻井家はいつ頃から住んでいたのであろうか。
初代から5代気多大社の宮司だったので能登羽咋一宮に居住していた。金沢に移り住んだ年代ははっきりしない。

御馬乗竹村仁左衛門の弟子になった
6代甚太夫は寛保3年(1743)2月18日江戸で十人扶持で召し出されている。<*1>江戸詰めは最長4年の決まりがあることから単身赴任であったと思われる。当家の菩提寺は現在の扇町にある真宗・武佐山広済寺であった。過去帳によると享保19年(1734)9月に甚太夫の子(戒名露百)の記帳があるので江戸で仕官する9年前には金沢に居たのであろうが住居までは確認出来ない。加賀藩には時代によりいくつかの馬場があったようだ。三代藩主利常が小松の隠居先で万治2年(1659)に没すると金沢に戻ってきた藩士の為に馬場のあった辺りを住宅地として提供され馬場は浅野川側に移されたそうだ。延宝年間(1673〜1681)の古地図にも浅野川沿いに移った関助馬場が確認できる。この頃甚太夫が住んでいた辺りは数家の武家屋敷があり櫻井の名は見当たらないが中村**左衛門と見える。親戚筋に中村姓がいるので今後の調査としたい。
宝暦9年(1759)4月10日「金沢に大火あり、消失するもの一万五百余戸」この時、金沢城本丸、二の丸、三の丸、御門、櫓、蔵、塀に至る迄ことごとく消失し、多くの寺社、武家、町家、百姓町にまで類焼している。広済寺も焼けている。しかし「馬場一番丁御馬乗御歩櫻井由太夫(甚の誤殖か)<焼け>のこり申候」
<*2>と記録があるので初めてここに住んでいたことが確証できたわけである。甚太夫は明和4年(1767)8月7日十五人扶持に昇給し<*3><*5>、15年後の天明2年(1782)12月28日伜弘助が元服(成人)して十人扶持で御厩方として召し出されている<*4>が、その6年後の天明8年(1788)9月10日6代甚太夫は没した。その翌年甚太夫の養子として弘次郎が十五人扶持御厩方跡目相続している<*6>ので倅弘助が早世したのであろうか。弘助の記録は由緒一類附帳(藩に提出する戸籍簿)にも広済寺にも過去帳が焼失して残されていない。所が7代弘次郎も4年後の寛政5年(1793)7月31日亡くなっていて、3年後の寛政8年(1796)12月4日、伜大吉が跡目として十人扶持となった<*7>。大吉は翌年2月26日に亡くなった為、弟であろうか弘次郎のもう一人の伜が同年(寛政8年)12月に八人扶持から十人扶持に昇給し跡目を継ぐことになったそれが8代甚太夫(錠二の祖父)である。馬術に精進し文政13年(1830)8月26日御馬方御用扱い十年に芳情、新知行百石を賜わった。奇しくもこの古地図が描かれた年である。天保8年(1837)6月8日から弘化3年(1846)3月1日迄御馬乗を務め、「学校方雑纂」経武館稽古割<*8>に甚兵衛の名前が記録されていて藩の子弟に馬術を指導していたことが分かった。

甚太夫の伜
9代甚太郎(錠二の父)は文政11年(1838)8月御馬方御用見習となり、嘉永元年(1848)豊之丞殿御馬術御稽古方御用・御馬奉行支配となる。嘉永6年(1853)9月3日先代甚太夫が病死したので跡目遺知百石を継いだが、文久3年(1863)3月、48歳で病死した。18歳の義兄10代先之丞が15人扶持御馬奉行になるが、御馬が合わなかったのか家業を怠り届出怠慢等により扶持を取上げられてしまった。16歳の兄11代房記が新たに40俵で召出されたが生きて行くのがやっとの生活に陥ってしまった。家運挽回は息子達の教育にあると考えた母八百は、親類の猛反対を押し切り家屋敷、家財を売払い先之丞の生活の手当てをして錠二と共に上京するのである。以上5代130年に亘って金沢で暮らしたが馬場一番丁に住んだのは70年程と思われる。
二人の兄は既に藩費生として東京にあり、金沢に残った先之丞のその後は詳しくは分からないが過去帳からは、御歩町五番丁に移り、30歳近くに授かった二人の子供は相次いで夭逝し、10年後には妻も亡くなりその10年後の明治30年、金屋町で亡なっている。52歳であった。明治45年、甚太郎の50回忌の法要を執り行い金沢武佐広済寺から東京染井霊園に墓地を移し、先祖累代の墓を立て、同時に明治28年東京で亡くなった八百と甚太郎を合葬する。現在も本家が先之丞や水子も含め篤く供養し、百回忌、百五十回忌の法要を執り行っている。                                         2006/11/13
 *1      加越能文庫「御役替御加増 新知 家督役掛等記録第七」(元文五至延享七)
 *2      加賀藩史料(八)清文堂(1970)
 *3      加越能文庫「御役替御加増 新知 家督役掛等記録第十」(宝暦十四至明和十)
 *4      加越能文庫「御役替御加増 新知 家督役掛等記録第十二」(安永九至天明五) 
 *5      加越能史料「天明三年士帳下」 
 *6      加越能文庫「御役替御加増 新知 家督役掛等記録第十三」(天明六至寛政二)
 *7     加越能文庫「御役替御加増 新知 家督役掛等記録第十四」(寛政三至十一)
 *8      加賀藩史料(十五)清文堂(1970)
気多神社大宮司・権代宮司家墓所 金沢・武佐 広済寺 染井・先祖累世墓
Home 年表1 年表2 年表3 年表4

拡大図